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2021年11月1日(月)
エドウィン・ダンがやってきた頃の直江津はどんな町?(その2)
日本列島4島がすっぽり入る円の中心にあって、「直江津うみまちアート」などで今、注目の直江津。
その直江津が近代化する礎(いしずえ)とは何であったのか。前号(その1)でも好評を博した、桑山有紀様のご寄稿(その2)をお届けします。
エドウィン・ダンがやってきた頃の直江津はどんな町?(その2)
桑山有紀(直江津出身、札幌在住)
直江津は、江戸時代には北陸街道から除外されていました(富山から新潟へ向かう人も直江津を通らず高田への迂回を余儀なくされました)が、明治に入り高田藩の制約から解放され交通の要衝として発展しました。
M22年の安国寺区や八幡区等8大字の合併やM19年の信越線(直江津~関山)及びM30年の北越鉄道(春日新田~鉢崎)開通を機に、町内の主要道路が開設されていきました。
町史では以下の通り記載されています。
①「直江津橋から中学校(南校舎)前を通り曙区通りから安国寺区通りを経て五智国分寺裏まで
(今の直江津五智街道)の街道はM18年信越鉄道上り線の出来た翌M19年にできた路線でそれ
以前はなかった。」
②「M30年北越鉄道敷設さるるや今までの直江津駅を曙区通りの突あたり現在の処に移転し同時に
曙区通り四つ屋区通りを開いた。」
③ M23年に中嶋道路(新町の町役場西通り寄町~四ツ屋区)、M24年に中町道路(新町の町役場
東通り寄町~旭区)、M32年に横町新道(横町十字路~今の中学校(旧南校舎)前迄で即ち
警察署前通り)が開設された。
写真1はダン達が直江津にやってきた頃の駅前風景です。いかやのシンボルだった八角形三層建物はまだなくて、正面奥に駅舎があります。いかやの駅前支店完成の記念写真のようです。M31年の直江津駅の移転を機にいかや以外に附船屋や古川屋等が駅前に進出し、通りは一気に賑やかになったことでしょう。
写真1 直江津駅前 (直江津絵葉書)
その後も新しい道路の整備はありましたが、明治時代に開設された南側の主要な通りは, 私の子供の頃の昭和30年代もほぼ同じではないでしょうか?荒川への架橋はM4年が初めてで、次々に橋が架かり流失も相次ぎました。M30年代後半では、上流から直江津橋、荒川橋、そして写真2の永代橋(古城と新川端町の間。M30年流失/M36年復旧、昭和に老朽化の為撤去)の3本がありました。
写真2 永代橋 (写真集 ふるさとの百年 上越 新潟日報事業社S57年発行)
人口は府中史研究によるとM4年では5,717人でしたが、M28年は10,911人、M29年は14,417人と急増し、目覚ましい成長過程の最中にダン達がやってきました。明治の中頃、直江津の商家では多くガス燈を灯していたとのこと、その暖かい光に照らされた雁木の街並みはダン達にとって初めて見る風景だったでしょう。
その後インターナショナル石油は製油所を操業しましたが、原油を十分に確保できなかったこと等からM40年に撤退しダン達も直江津を去りました。日本石油に引き継がれた直江津製油所はT11年に廃止されました。工場の所謂赤煉瓦異人館は廃墟になりましたが、姿を変え残った建物があるのです。それは宿舎だった木造2階の建物で、移築(低層は一部改造とのこと)されてT3年から約60年頚城鉄道の新黒井駅舎として活躍しました。(写真3参照)駅が廃止されたS43年には高校の学年全体で新黒井駅を訪問しました。
今はもちろん実物はありませんが、その画像やスケールモデルは軽便鉄道や鉄道模型のファン達に愛され続けています。(完)
写真3 (頚城鉄道 新黒井駅(頚城自動車ホームページより)