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2021年9月21日(火)
エドウィン・ダンがやってきた頃の直江津はどんな町?(その1)

 日本列島4島がすっぽり入る円の中心、直江津。日本遺産「北前船寄港地」指定、港湾大整備、そして、今夏の「直江津うみまちアート」と、昔からの交通の要衝は今、燃えています。
 その直江津が近代化する礎(いしずえ)とは何であったのか。直江津出身で札幌在住の桑山有紀様のご寄稿が、2回にわたって、探ります。

エドウィン・ダンがやってきた頃の直江津はどんな町?(その1)     桑山有紀

 私は、昨年、母校高田高校の同窓会東京支部会報「雪椿」にエドウィン・ダンとジェームス・ダン親子と私の不思議な縁について寄稿しました。
 エドウィンは明治の初め米国から来日、北海道開拓使にて酪農を指導の後、外交官に転じ、駐日公使を務めた後、M33年インターナショナル石油(写真1参照)を設立し、直江津支配人として活躍しました。

写真1 インターナショナル石油直江津製油所(ふるさとの百年 上越 新潟日報事業社 S57年発行より)

 息子ジェームズは直江津小学校に通い、成人後は音楽家として活躍、母校の校歌を作曲し、同窓会のピアノ寄贈に際し世界最高のピアノ(写真2参照)を選定してくれました

写真2 現在も現役の直江津小学校  ビヒシュタイン製ピアノ (R元年)

 2人共故郷の大恩人です。そのことは、Jネット会報「たより」でも、H23年12月25日号「直江津小学校のピアノと校歌」、および令和1年11月25日号「直江津小学校校歌は語る―ダン親子の直江津物語」にて紹介されています。
私は最近「直江津の歴史」(直江津の歴史編集委員会編集 S46年発刊)にダン達の記事が結構あること、また「越後府中地方史研究」(渡辺慶一著 S26年発行 以下府中史研究という)には外国人社員の役職と氏名が記載されていることを発見しました。
 M33年から7年間ほど22名もの外国人が在留していたとはびっくりで、様々な異文化交流があったことでしょう。町民達との交流について興味は尽きませんが、まず当時の直江津はどんな町だったか知りたくなり「直江津町史」(白銀賢瑞著 S29年発行 以下町史という)も 参照してみました。
 府中史研究の享保、文化文政そしてM5,6年頃の地図によると、江戸時代に町が2つ程追加された(波浪や荒川氾濫の為避難し移住)ものの明治初期まで南側の町割りは変わりません。
 町史には「高田藩時代の直江津は西は横区を限りとして砂山、塩屋新田、八幡に接し、東は荒川を限りとして西対岸は荒漠たる(中略)一軒の民家もなかった。南は寄区を限りとしてそれ以南は至徳寺地内で至徳寺集落のある処までは一帯の草原や田園で一軒の人家もなかった。」と記述あり、明治の初めも同様と推察されます。
 新町にはハイカラなお店があり、私が生まれた四ツ屋区より新しいと思ってましたが、なんと“新町は江戸時代から新町”とは!また直江津は大火で有名とは知っていたものの、府中史研究の「今日でも生きて居る人で50才位の人なら3回乃至4回位家を焼かれた人は多い」の記述には驚きました。
 ダン達が来たM33年は総戸数2,552戸でしたが、直前のM31年に1,595戸が、滞在中のM39年も1,091戸が焼失しました。江戸時代から町民は何回も大火に見舞われながら、砂丘上の狭い範囲で町を維持しました。きっと江戸時代での治水技術では荒川の氾濫・決壊は手に負えない脅威だったのでしょう。
 雁木が続く街並みは火事には大きなハンディですが、奥座敷を土蔵造りとしたり瓦葺屋根とする対策や消火体制の整備により火事への備えを徹底したのです。町史曰く「町民は災禍と闘い復興に全力を傾注し来たった、実に直江津は奮闘の町」でした。                                                                                                                                                                                    (次号に続く)