Jネット会員の方
新規入会

Home > とれたて上越・なんでも上越 > ダン親子の直江津物語

2021年7月9日(金)
ダン親子の直江津物語

直江津小学校校歌は語る
 
ながめとうとき 妙高山の
まどにうつれる姿をあおぎ
いよよわれらは けだかくあらん
この庭なつかし この庭たのし

 
 直江津小校歌は昭和6年に制定され、90年近く歌い継がれてきた。作曲者はジェームス・ダン。現在、伴奏するのは、ジェームスが選定した、当時最高のピアノ、ベヒシュタインである。長年、同校に眠っていたこのピアノは、平成に入って修理復元されて見事に甦っている。
 ジェームスは、米国人エドウィン・ダンと日本女性のヤマの次男として生まれ、一家は明治30年代、直江津に8年間暮らし、彼も直江津小に3年生まで通った。
 ピアノを買い込み、アメリカから取り寄せたレコードをよく聴いていた 父の影響で、音楽を志し、大正7年、東京音楽学校(現、東京芸大)入学。ベルリン留学から帰国後、ピアノの演奏活動を行う傍ら、現・東京音大など4大学で教鞭を取る。30年間勤務していた日大音楽科では、声楽家の妻と二人で寄贈した基金「ジェームス・道子奨学金」が、現在に至るまで学生たちを支援している。
 父エドウィンは、数奇な運命で直江津にやってきた。米オハイオ州の大牧場に生まれ、明治初め、札幌農学校のクラーク博士とほぼ同時期に来日。道内に農業、畜産業の指導で大きな足跡を残した。クラーク博士が西洋の精神を伝えたとすれば、エドウィンは技術の真髄を伝えたといわれている。
 日本女性ツルと出会い、「非利己的、自己犠牲的な日本の女性ほど、愛すべきものは世界中どこにもありえない」とし、10年という歳月を乗り越えて結婚。
その後、米国に帰国するものの、日本への思いもあり、明治16年、駐日米国公使館に職を得て再来日するが、まもなく、ツル夫人は28歳の若さで病死。
明治26年、ダンは駐日米国公使に昇進、翌年、中平ヤマと再婚。ジェームスら4男をもうける。日清戦争では、米国の立場から戦争早期終結に貢献するが、米本国の政変により公使を辞任。日本に尽したく、米国スタンダード石油に働きかけ、インターナショナル石油(本社は横浜)を設立し、自ら直江津の支配人として赴任した。
 東洋一の石油精製会社を運営しながら、エドウィンは、学校や寺社へ多額の寄付をしたり、日露戦争出征兵士の見送りや、戦死者宅弔問など、堪能な日本語を活かして直江津に溶け込んでいたという。
 しかし、明治39年、5人目の出産でヤマ夫人が亡くなり、翌年、石油会社が日本石油に譲渡され、一家は直江津の人々に惜しまれながら東京へ移った。その際、ダンの働きかけにより工場設備一切を残したことは瞠目に値する。その後も、ダンは三菱に移り、82歳の生涯を閉じるまでの56年間を日本の近代化に尽くした。
 日本石油も閉鎖となるが、その跡地は、現在、信越化学に引き継がれ、周辺に、太平洋特殊鋳造、日本ステンレス(現・新日鉄住金)、三菱化成(現。三菱ハイテクニカ)があり、「上越火力発電所」、天然ガス火力発電所、直江津LNG基地が建設される。
 まさに直江津に工場地帯が形成されるきっかけを作ったのが父ジェームスで、近代文化の香りを込めた直江津小校歌の曲はその息子の作品である。