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2021年6月23日(水)
上越のDNA

柳沢謙 博士 国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)元所長

(写真:凍結および乾燥研究会会誌より)

 新型コロナウイルスの感染拡大は収まる気配がない。それどころか、年明け早々には、再度の緊急事態宣言が首都圏はじめ日本各地に発出されるほどますます広がっている。この泥沼から抜け出すためにも、ワクチンの開発と接種こそが緊切の急務である。
 今から70年ほど前は、結核は、死亡原因第1位で不治の死の病だった。それが、ツベリクリンとBCGワクチンの普及、ならびに特効薬のカナマイシンによって、結核は克服できるようになった。そのBCGワクチンについて、世界での標準品を作り、注射による接種方法を開発し、また、カナマイシンの発見に貢献された人が、上越出身の柳沢謙博士です。結核から全世界の人々を救った大恩人といっても過言ではありません。

 柳沢謙博士は、1907年(明治40年)、津有村四ケ所(現・上越市四ケ所)の保坂家に生まれる。「謙」という名は、誕生日が謙信公三百年祭の日であったことに依る。男子末子でもあり、生後間もなく、同じ四ケ所の柳沢医院の養子となる。戸野目小、高田中学に進学。同中学1年のとき、実母が結核で亡くなる。
 新潟高校を経て、東京帝国大学医学部に進み、それからは、実母を奪った結核の研究を行う。卒業後は、同大学伝染病研究所(後に国立予防衛生研究所。現・国立感染症研究所)にて、本格的な研究に取り組み、結核予防において、前述の大偉業達成となった。
 ご存じの通り、結核予防としては、ツベリクリン検査で判明した陰性と偽陽性者に対して、BCGワクチンを接種し、結核の抗体をつくる。
 そのBCGワクチンは、元々、フランスのパスツール研究所にて菌が発見され、1921年に初めて新生児に投与。1924年には日本にも菌がもたらされた。
 柳沢博士が行ったことは、初めてBCGワクチンの注射を開発したこと(柳沢博士講演録より)、および、乾燥ワクチンを開発し、ワクチンの効力を長期間持続させたことであり、これは、結核予防を広く推進するうえで画期的なこととなった。これらの研究開発の大半は博士がほぼ一人で行ったという。
 1965年、日本のそのBCGワクチンが世界保健機構(WHO)により国際参照品に採用され、全世界で使用されるようになった。加えて、博士は、結核の特効薬カナマイシンの発見にも大きく寄与された(同講演録より)。さらには、博士の研究は結核のみに留まらず、ハンセン病やポリオの研究にも取り組み、その成果は高く評価されている。
 1970年に、国立予防衛生研究所(予衛研)の所長に就任し、我が国の予防医学体制の確立にも大きく貢献された。世界保健機構(WHO)への日本政府代表をも務め、こうしたことから、1977年に勲二等旭日重光章を受章された。1982年6月、心臓発作によりご逝去。享年75才。

 わが上越においても、1941年(昭和16)、博士自身の手によって、戸野目小学校で結核ワクチン接種が行われた。これは日本で初めての接種であった。1949年(昭和24)以降は、博士をはじめ予衛研の人たちが上越各地でツベリクリン検査とBCG注射を実施、その後20年近く続いた。1977年に博士は予衛研の所長を退任すると、その翌年から、博士お一人で、上越の小学校や中学校を回り、接種を続けられた。そこには、博士の郷土への強い思いがある。
 それにしても、母の病に遭ったことから結核の研究に生涯を貫いた一生であった。東京帝大医学部を出ても、花形の治療医学に進むことなく、ひたすら、予防医学という地味な研究に取り組み、結果としては、我が国の予防医学に偉大なる足跡を残されたのである。
 そのひたむきさの中に、豪雪の下、我慢と粘りの上越人の姿が見える。同郷の誇るべき大偉人である。 

                         
令和3年1月(伊藤利彦 記)