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2022年8月5日(金)
上越のDNA/坂口謹一郎博士
(坂口謹一郎博士 「上越市提供 撮影:霜鳥一三氏」)
「酒の博士」として知られる坂口謹一郎博士は、ご存じ、上越市出身。我が国の醸造学泰斗としてだけでなく、文化人としても著名。
その博士の偉業や志を上越の子供たちに伝えるため顕彰会が発足、同顕彰会メンバーの渡辺真守様にご寄稿いただきました。渡辺様は、新潟日報連載小説で川上善兵衛を描いた「葡萄色の夢を追いかけて」の作者です。
東京大学名誉教授で「発酵学の父」とも称される、上越市の偉人・坂口謹一郎(1897年~1994年)を、ご存じだろうか。
坂口は、微生物のはたらきに着目し醸造・発酵学の礎を築き、今でいうバイオテクノロジーの草分け的な存在となった人物である。
坂口家は代々頸城村字中城新田の地主の家であり、謹一郎は祖父が興した石油事業の製油所があった、現在の上越市東本町で誕生した。高田師範付属小学校から高田中学校へと進むが、小児麻痺を患い、卒業を断念。3年かけて回復した坂口は、東京の順天中学校に編入し、第一高等学校、東京帝国大学農学部へ入学。
コウジ菌や酵母などの微生物がもたらす発酵学・醸造学の研究者の道を歩むことになる。20世紀後半以降、抗生物質やアミノ酸を作る、未知の微生物が次々に発見され、微生物研究は飛躍的な発展を遂げる。それを先導していったのが坂口であった。
彼のもとには最先端の教えを乞うために、多くの人々が集った。
寿屋(現サントリーホールディングス)創業者の鳥井信治郎は、国産ワイン製造を始めるにあたり、坂口の指導を受け、カルピス創業者の三島海雲は新製品の開発のため、坂口の研究室に何度も足を運んだ。また、上越市の岩の原葡萄園創業者・川上善兵衛も同様で、マスカット・ベーリーAという葡萄品種誕生の裏には、坂口が東大で行った醸造試験による科学的な分析などの支援があった。この他にも味の素、協和発酵バイオ(株)など、名だたる企業が坂口の指導を受けている。
そして、別名「酒の博士」としても親しまれた坂口は、日本酒の杜氏からの信頼も厚く、上越市内の酒蔵を始め、数多くの酒造メーカーの杜氏を指導し、全国の醸造地・酒蔵の振興にも力を注いだ。
また、趣味で始めた和歌は、奔放かつ風格のある歌を詠み、歌人としての評価も高く、宮中で行われる歌会始の儀に召人(題にちなんだ和歌を詠むよう特に選ばれた人)として招かれ、昭和天皇皇后両陛下の御前で歌を披露するほどだった。
そんな研究者という枠に収まり切れない坂口が導いた奇跡がある。奇跡の舞台は沖縄。今年、本土復帰50周年を迎えた沖縄は、地上戦で多くの人命のほか、貴重な財産や文化遺産などを失った。泡盛の製造工場や製造に欠かせない黒コウジ菌も全て焼失し、戦後は新たに培養された菌で泡盛造りが行われた。しかし、坂口が戦前、全国を回って採取していたコウジ菌の中に沖縄の黒コウジ菌があり、東大で冷凍保存されていたことが分かった。約60年の時を経て泡盛は復活を果たした。約7年もの歳月をかけて全国各地を回り、3,000株にも及ぶコウジ菌を採取した、坂口のひたむきさがこの奇跡につながったと言えよう。
その泡盛は、「瑞泉 御酒(うさき)」として販売され、東大でも岩の原ワインとともに、人気の高いお土産である。
晩年坂口は、「微生物学酵素学の発展に貢献」したことから文化勲章を受章。そして、1994年、97歳で永眠。従三位に叙せられた。
坂口の研究の根底にあったもの、それは「学問は人類の幸福のためにある」という考え方だ。微生物という小さき生命力の可能性に傾注し、その成果を社会に還元しようとする、地域貢献・社会貢献の精神である。多くの偉人に共通する上越人の粘り強さと「義の心」がここに垣間見える。
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坂口謹一郎の志や功績を後世に伝え、次代を担う子どもたちの科学への夢を育むこと等を目的として、本年4月に「発酵学の父 坂口謹一郎顕彰会」が新たに起ち上った。
会長は新潟県酒造組合高田支部事務局長の小林元氏、そして、岩の原葡萄園代表取締役社長や杉田味噌醸造場専務取締役、上越市立坂口記念館館長、上越教育大学教授などの地元有志が主な構成員となっている。市内の小・中学校に講師役として赴き、博士の功績や科学の楽しさを伝える活動を主体に様々な顕彰活動を進めていく予定だ。
見事復活を果たした沖縄の泡盛は、この先50年、100年とその味を後世に伝えていくことだろう。私たちの顕彰活動の火も絶やすことなく灯し続けていかなければならない。