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2020年3月9日(月)
和親会 ―現代に受け継ぐ高田藩榊原家の伝統―

和親会理事 松川太賀雄

 

[榊神社]

榊神社と和親会

「高田の夏は爽涼と・・・榊神社の森たそがれて・・・」と、高田の準市民歌「高田の四季」に歌われている榊神社は、明治9年、高田城大手前の旧藩主別邸=対面所の跡地に建立された。
康政公の鎧、兜、刀剣を神宝として、初代康政公、3代忠次公、11代政令公、14代政敬公の名君を合祀し、現在に至っている。その敷地内に本部を置くのが和親会、正式名称「公益財団法人旧高田藩和親会」である。
和親会の前身は、旧「榊原慈善団」だが、その成立には榊原家の「尚武勧学」の伝統と苦難の歴史がある。

「尚武勧学」を藩是に掲げた榊原家

榊原家では、藩祖康政公以来、代々の藩主は「尚武勧学」を藩是に掲げ、とりわけ学問を重んじてきた。
政令(まさのり)公も学問を好み、篤学の士を儒臣として招いたり、藩士を江戸へ送って砲術や兵術などを学ばせ、激動に備えた。
幕末の14代政敬公の代には、木村容斎、倉石侗窩、小林百哺など優れた学者が現れ、一層学問が盛んになり有為な人材を輩出した。前島密も倉石侗窩の教えに薫化された一人であろう。
こうした伝統は、明治7年、全国で開校トップ7校に入る新潟学校第四分校(現高田高校)の創立に繋がった。「高田教員、○○(県内某市)巡査」と言われるように、高田藩士の子弟で教員を志す者が多かったのも、こうした伝統によるものと言われている。
高田藩の苦難
高田藩榊原家は15万石とはいえ、実収はその半分と言われ、藩財政は容易ではなかった。そのため、政令公の時代から稲荷用水の開削、新田開発、造林などの事業を行い、家中にも杉や梅の木などの栽培し、殖産に努めてきた。
維新を迎えると、より厳しい現実に直面する。東征軍長期預かりや会津降伏人預かりなどの他、明治2年の大凶作、3年の政庁全焼、4年の寺町火事などのため益々窮乏、そして換金できない藩札を発行(赤札事件)に至った。それにもまして、藩士の生活は惨めで、新政府の指示より、禄高を9割以上減じられたうえ、一時金も藩借上げで入ってこない。困窮する家臣達を見かねた藩主政敬公は、救済のために城郭の土塁をお堀に入れて蓮根の栽培を始めたほどである。青田川西側の郭外に居を構える藩士の中には、町人から「川外の三貧」と侮られるほど貧窮を極めた者がでる始末であった。

育英・福祉のため、榊原慈善団を創設

維新を迎え、高田城は新政府所有となり取り壊された。しかし明治22年、その跡地が軍事費捻出のため売却に出されると、政敬公が買い上げる。そして、その耕作地からの地代収益を外堀栽培の蓮根の収益金と合わせて、旧藩士子弟の学費補助と困窮者救済事業に充てることした。
その後、高田町は軍隊の誘致を展開し、城地を明治40年に榊原家から6万円で買い上げ、そこに、明治41年に陸軍第13師団が入城した。
旧藩主政敬公は旧家臣と諮って、明治42年1月、城地の売却代を基金に財団法人「榊原慈善団」を創設する。そして、従来にも増して、育英(学資貸与)事業と福祉(生活扶助)事業に力を注いだ。
榊原慈善団は昭和4年に旧高田藩和親会と改称するが、この基金から援助を受けた人数は、昭和22年までに学費貸与者227名、生活困救済450名に上る。この他にも多くの寄付も行ってきた。

現代に受け継ぐ高田藩榊原家の遺風

和親会の会員数は現在1200人余り。旧家臣縁者のみならず、榊原家の遺した藩風を理解する人士も数多く入会している。
現在の和親会は、毎年フォーラムを開催するほか、榊神社春秋例大祭への参列、高田藩や榊原家の歴史や文化の維持に加えて、青少年育成のため、高田剣道少年団や上越武道連盟へ補助金も提供する。旧高田藩の墓地管理も事業の一つである。
さらには、会員一人ひとりが、城下町高田の文化や教育に関心を持ち、それらの維持発展に、微力ながらも尽くしていることも記しておきたい。高田藩榊原家の遺風はこの城下町でしっかりと受け継がれている。
(Jネット注 なお、17代政信様にも、当会は発足時から顧問としてご支援をいただいております)